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 赤い実が窓の外に点々と広がっている。その正体は、母さんが管理しているリンゴ畑のものだ。小ぶりだけど鮮やかな色は、意識しなくても自然と目に飛び込んでくる。
 その赤が、俺は苦手だった。それが景色に溶け込む頃、俺はどうしようもなく卑屈になり、幼くなり、そして弱くなってしまう。俺にとってのリンゴの色というのは、ある意味呪いのようなものだった。

 ちょうど収穫がピークに差し掛かってくる、嫌な季節がやってきた。自分でどうにか回避できればいいのに、こればかりはどうしようもない。家事や仕事を手伝ってやっと手にできる小銭では、片道分のバスチケットも満足に買えないし、最近やっと一三歳になったばかりの子供が、徒歩でちょっと遠出と洒落込めるのは、せいぜい隣の村との間にあるボロい教会くらいだ。
 夏の暑さを身体が忘れ始めるこの時期になると、俺が住んでいる国、そして小さな村では誰もが忙しなくなる。長きに渡り、事実上他国の支配下にあったというこの土地では、一三年前に国の行く末を案じた青年活動家たちによって、地の利を生かしたゲリラ戦が繰り広げられ、武力で前政権を倒し革命を成功させた──という歴史がある。
 その記念日がまさに今日。今日という日はみんな、平和を祈り、革命によって散ってしまった尊い命を偲び、今を共に生きる家族たちが集まり、悲しみも喜びも分かち合うというわけだ。
 俺は生まれてから一度も墓参りというものをしたことがない。理由は簡単。この村に、俺の家族が眠っている墓がないからだ。

 昔から、それこそ生まれた時から、俺は母親とふたりで暮らしている。父親については、俺が生まれる前に死んだとしか聞かされていない。親戚の話も聞いたことがないから、生死以前にそもそも存在するのかも怪しいけれど、ひとつだけわかっているのは、この村が母さんや父さんの故郷ホームではないということ。
 俺自身の見た目に関しては、目元は母さんに似ているとよく言われるが、色はちがう。母さんの目はブルーで髪も明るめなブロンドなのに対して、俺の目はグリーン。そして同じブロンドでも、俺の方は色がくすんでいる。
 外見は多分父親に似たんじゃないかと思っているけれど、俺は彼の見た目がどんな感じなのか、一度も見たことがないからわからない。そもそも名前すら知らない。ないない尽くしでいっそ清々しい。
 片親しかいない家庭なんて今時珍しくないとは言っても、何気ない一言や状況によって、自分と他人との違いが浮き彫りになることだってある。それがまさしく今の状況。友だちやクラスメイトがみんな、家族揃って村から少し離れた高台にある共同墓地ネクロポリスに行くとか、普段は離れて暮らしている親戚同士が集まって、一緒にご飯を食べるとかしているのを、俺はいつも遠くから眺めている。
 最初はなんの意味があるのか理解できなくて、不思議に思いながら日々を過ごしていたのが、物心がついてそれなりに人格ってやつが形になっていくと、無性にイライラしたり寂しくなったりして。この、やりようのないドロドロとしたものからどうにか目を逸らしたくて、母さんに昔話を強請ってはかわされて。母さんはなぜか、俺が生まれる前のことや、自分のこと、そして父親のことを頑に話そうとしない。
 何年か前の今日、俺はどうしても父さんがどんな人だったのか知りたくて、母さんが留守にしている隙に部屋中をひっくり返し、なにか手がかりになるものはないかと探し回った。せめて手紙の一通でも、昔着ていたかもしれない男ものの服とかでも。父さんに繋がるかもしれないものだったらなんでもよかったのだ。
 やっとの思いで見つけたのは、屋根裏部屋に置いてある本に挟まっていた一枚の写真。でも写っていたのは、今よりも若くて、お腹が大きくなっていた頃の母さんだけ。母さんの肩に手が回されていたのに、その人物であろう父さんの部分は、破られていてどこにも見当たらない。
 そして、別の日にまた屋根裏部屋へ忍び込んだ時、あの写真は跡形もなく消えてしまっていた。
「ジュニア」
 一仕事終えて、休憩しに戻ってきた母さんが仕事用の手袋を外しながらやってくる。出てくるのは、日に焼けて傷が多くて、これまでの苦労が滲み出ている細くて小柄な手。左手薬指に光る、青みがかった小さなダイヤモンドがひとつある指輪だけは、ずっと変わらずそこにいる。
「今日の手伝いはもういいわよ。後は倉庫の片付けだけだから」
「わかった」
 旧型のテレビをつけると、ちょうどニュースが始まったところだった。眠くなる声色のアナウンスと一緒に流れている映像は、前政権を象徴していた旗が降ろされ、革命家たちの旗に替えられる瞬間を記録したものだ。この様子は教科書にも載っているから、嫌でも頭に残っている。
 一緒にブラウン管を見つめていた母さんが、無言でチャンネルを変えていく。でもどの局も同じ内容なのが気に入らないらしく、ため息をつきながら台所に移動し、お茶の用意を始めている。俺が生まれる頃イコール父さんはもういない頃でもあるからか、いつもは気さくな性格なのに、今日という日に限ってはいつもこんな感じだった。
「ねえ」
「んー、なあに」
「俺たちは行かなくていいの」
「行くって、どこに」
「墓参り」
「行かない」
「なんで父さんの墓参りにいかないの」
「そもそも、お花を添えるお墓がないからよ」
「どうして墓がないのさ。墓もだし、父さんの写真だって一枚もないじゃんか」
 俺としては、墓がないと言うのは俺を諦めさせるための嘘だと考えているから、これで何回目になるかわからない質問を口にする。そうしたって、どうせ母さんはいつも通りの返ししかしてこないのも折り込み済みだけれど、今日はもしかしたら──そんな期待を捨てきれずにいる。が、結局俺の耳に届いたのは、俺の求める答えではなかった。
「別にお墓なんてなくても、父さんとはいつも通じ合っているからいいのよ。たまに空を見れば、きっとそこから見守っていてくれている……それで充分」
 母親からこんな風に言われてしまうと、息子の俺としては大人しく引き下がるしかない。それでも今日こそはなにか、自分の父親ルーツについて知りたい。その一心で口を閉ざす母さんを見つめていると、向こうは俺が睨みつけていると勘違いでもしたのか、さっきより少し強い口調で
「ジュニア」
「なんだよ。別に変なこと言ってないだろ。父さんの話をすると、いつもそうやってムキになる」
「ムキになっているのはアンタの方でしょ。そんなに意固地になるのだって、どうせ友だちや周りの人たちと同じことができないのが嫌なだけでしょう」
「……そんなんじゃない」
 と、内心言い切れずにいるのが情けない。母さんの言う通り、俺は周りと違う行動をとることによって、自分だけ仲間はずれになっている気がして、すごく心細くなってしまうのだ。なんで俺には父親がいないのか、なんで俺には母親しか家族と呼べる人がいないのか。
 なんで、俺は、みんなみたいに──これ以上言ったって、むやみに母さんを困らせるだけだと自分なりに察したのが二年前。そのことに気づけただけでも、自分は分別のある大人に近づいているんじゃないかと、そう思い込んで自分をなぐさめてみたって、実際の俺はまだ子供でしかない。更に不名誉なことに、世の中には自分が頑張ったってどうしようもないことがあるなんて現実は、多分同年代の子供よりはよく知っている。
「そんな顔しないの。仕事が終わったら、いつものアップルパイ作ってあげるから。好きでしょう」
 確かに、母さんが特別な日に作ってくれるシナモン抜きのアップルパイは、凄くおいしいから好きだし、魅力的だけれども。今の俺にとって、それは毎回行き着く妥協でしかない。部屋にこもって勉強でもするか読書でもするか、それとも昼寝でもするか……どれもしっくりこなくて、俺は身支度を適当に済ませ、無言で家から逃げだした。


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