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 うちには特別厳しい決まりというものはなく、ただ出かける時は一七時までに帰るのだけは徹底している。友だちと遊んでいるのに夢中になっていたら、いつのまにか夕日が沈み始めていて……なんてのはよくあるパターンで、そんな時は全力疾走で家に駆け込み、仕事帰りの母さんより早く着けばおとがめなし。ただ今日に関しては、こんなユウウツ・・・・な気持ちでいて、はたしていつも通り家に帰れるのか自信がない。
 アテもなくただふらふらと、気の向くままに舗装されていない道を歩き回ってみる。リンゴのコンポートを作るのが上手なおばさんの家の前、最近赤ちゃんが生まれたらしい若い夫婦が住む家の前、誰かが通ると、飽きずに吠えるアホ犬を飼っている学校の先生の家の前、エトセトラエトセトラ。どこの家からもいつもの生活の音がしないのは、今頃みんな同じ目的のために動いているからだろう。
 たまにすれ違う人たちも、見慣れないスーツ姿だったり、普段着でも控えめで地味な色合いの服を着て、その手には決まって花束がある。ぞろぞろと連れ立って歩く姿を不気味に感じる自分と、なんとなく壁を感じる自分。寂しい、と感じるのを素直に認めたくないのは、さっき母さんに言われた一言があるからだ。
 そんな中、同じような人たちの列から外れ、別の方向に歩く白髪の人がいる。猫背気味で、おぼつかない足どりでふらふらと歩いているのは、お互い顔は知っているものの、ほとんど関わったことのない人物だった。最後に挨拶したのはいつ頃だったかはっきりしないけれど、なんとなく俺は早足で歩いてその人物に並ぶ。
「こんにちは」
「やぁ、君は確か……ドナさんとこの。随分久しぶりに顔を見た気がしますねぇ」
 実際こうして道端でも会うことが少ないのは、このおじいさんが酒場の店主で、生活リズムが俺とはちがうからだろう。おじいさんの酒場は大通りから外れているし、営業しているのかよくわからない外観をしている。でも、店の前にある電飾スタンドからはレトロな雰囲気が漂っていて、その扉の先にはどんな世界が広がっているのか、前から少し興味があった。
「おじいさんは、みんなみたいに墓参りには行かないの」
「いや、ちょうど向かっているところだよ」
「でも、この先はなにもないよ」
「僕が行くのはまた別のところだよ。まあ他の住人たちはあまり行かないようだが……」
 おじいさんが指で示したのは、共同墓地ネクロポリスがある丘とは反対の東、雑林がある方向。たまに遊び場にしているそこになにがあるのか。思いつかなくて首を傾げてみれば、おじいさんは
「もしかして、雑林を抜けた先には行ったことがないのかな」
「危ないから奥まで行くなって、母さんが」
「危ない……あそこに危険なものがあるとは思えませんが……あの先にも、墓地があるのですよ」
「えっ、初めて聞いた」
無 縁 墓 地ポッターズフィールドといってね。そうですね……供養してくれる家族や友人がいない人たちの眠る場所、といったところです」
 ずっとこの小さな村に住んでいて、まだ知らない場所があったことに自分でも驚いた。俺には直接関係がなさそうな場所ではあるけれど、行ったことがないというだけで妙に気になってくる。黙って聞いている俺に、おじいさんは更に続ける。
「この村には所帯を持たず、誰とも交流をせず老後に孤独死、なんて人はほとんどいないのですがね。一三年前の内乱の時、ここからそう遠くない場所で革命勢力の掃討作戦がありまして、その時に亡くなった人たちで身元が不明、もしくは身寄りのない人たちを埋葬しています。それぞれに立派な墓石なんてのは用意できないし、せめて名前がわかる人の名前を刻む位しかできませんが、それでもないよりはいいかと」
「へぇ……そこ、おじいさんが管理しているの」
「ええ、これから様子を見に。まぁ、あそこに訪れる人間は僕しかいませんので」
「そうなんだ……」
「いやいや、なんかすみません。君には大して面白い話でもなかっただろうに、長々と引き止めてしまって」
 申し訳なさそうにする酒場のおじいさん、もとい墓守のおじいさんに、そんなことはないと俺は首を振る。この人は、今日という日のために動く人間のひとりでも、他の人たちとは事情が少しちがう。そんな人がいるってだけで、俺にとっては少しだけ救いになった。

 俺はその後も度々目にする、似たような格好をした人たちが向かう先とは別の方向に足を向ける。道なりに五〇〇メートル位歩いていけばY字路に差し掛かり、左手に進めば古びたバス停が見えてくる。二時間に一本のペースで運行しているバスがそろそろ到着する頃だからか、既に誰かを迎えに来ている人がいて、その中には友だちもいた。
 いつもだったら声をかけるけれど、今は彼らと挨拶すらするのが億劫で、俺は向こうの視界にぎりぎり入らない位の距離を取り、そのままなんとなくバスが来るのを待ってみる。外から俺や母さんを訪ねてくる人間はまずいないし、かといって俺がバスに乗るには色々と足りない。それでも、未だに晴れない気分を変えてくれるかもしれないなにかを求めて、俺はその場で雲の流れを追い始めた。
 特になにかの形に似ている訳でもなく、ゆっくりと輪郭が崩れていく様子でしか変化がない姿に飽きてきたその時、古い型だからかやたら響くエンジン音と、一緒に巻き上がる砂埃がバスの到着を知らせる。パーッ、とまぬけなクラクションが鳴れば、バスの扉が開き、そこから数人降りてくる。バス停で待っていた人たちが、それぞれ客人と挨拶を交わし、村へ向かうべく動き出した。
 バスはY字路の右手へとUターンし、空気が汚れそうな黒い排気ガスをまき散らしながら、どんどんその姿を小さくしていき、客人との再会に喜ぶ人たちが、すれ違う俺への挨拶もそこそこに移動し始める。村へ向かう。行き先はもう聞かなくてもわかる。それを示す証拠に、さっきバスを降りた人たちもみんな、今日の村の人たちと似たような格好をしていた。
 結局、気分転換どころかますます孤独感が強くなっていく中、俺はこの後どうしようかとバス停の方を見やる。すると、そこにはまだ人影があった。バスが残した砂埃が風に流されて現れたのは、なんとなく近寄りにくそうなふいんき・・・・の男だった。
 ぱっと見た感じ五〇代位に見えるその人は、前にテレビで観た、ウエスタンっぽい茶色の帽子とロングコートを着ていて、手持ちのカバンひとつ持ってその場にたたずんでいる。昔この村に住んでいた人だろうか。その割には、いかにも里帰りとか墓参りに来ました、という感じがしなくて、むしろ『荒野をさすらう孤高のガンマン』とか言われた方がしっくりくるような。
「少年、ちょっといいかい」
 辺りを見回していた男が俺に気づいたらしく、深く被っていた帽子をずらし、少し日焼け気味の顔をさらけ出す。帽子に隠れていた彼の髪と目の色が、自分のと同じだったことに驚きを隠せない。それに、無精髭を顔中に散らしているその人の、顔つきが思いの外優しげで、最初に見た時の印象と実際に話す姿が、俺の中で噛み合わずにいる。
「……なんですか」
「人を捜していてね。といっても、実は私もファミリーネームしか知らないのだが……『ジュード』という名前の人、この村にいないかな」
 ジュード。聞き慣れない名前を頭の中で繰り返しながら、村にいる大人たちをスライドさせてみる。でも思い当たる人は浮かばない。しばらくうなっていた俺を見たおじさんは、そうかと頷いてみせつつ、
「例えばだが、ここ数年の間で引っ越していった人とかはどうだい。思い当たる人はいないかな」
「うーん。いない、と思うけど」
「そうか……」
「その人の連絡先とか知らないの」
「ああ……実は、その人とは昔一度会ってそれっきりでね。つてをたどってやっとここまで来たんだが」
 そう説明しながら、おじさんがあからさまに落ち込んでいるのがわかる。なんでジュードという人を捜しているのか、どこからやってきたのかもわからない。でも首都から遠く離れた、観光地でもない辺鄙へんぴなこの村に所縁ゆかりのない人間がわざわざやってくるということは、よっぽど大事な用事があるのかもしれない。
 まだ会って五分もたっていない人間なのに、俺はこのおじさんから妙に目が離せなくなっていた。知らない人についていってはいけないと、先生にも母さんからも口酸っぱく言われているのに、目の前の人がこれからどうするのか、どこに行こうとしているのかが気になる。それは、外の人間と会話する機会がないからとか、今日という日と無縁そうな人間への好奇心とか、そういう単純な理由なのだろうか。
 けれど、俺の根っこ、もっと原始的な部分は、そうじゃないと必死に首を振っている気がして。
「おじさん。バス、次は二時間後だよ」
「えっ、そうなのか……まいったな」
「もし他に用事がないならさ、村を案内してあげようか」
 突然の提案におじさんは目を丸くする。構わず俺は続けた。
「おじさんが捜している人のこと、俺は知らないけどさ。大人ならもしかしたら知っているかも」
「それは有り難いが……迷惑にならないかい。少年も出かける用事があってここにいるんじゃ」
「逆。ヒマすぎて困ってた。バスの運転手になるにしても、身長が足りないってさ」
 少しおどけて言ってみると、おじさんは心配そうにしていた顔を歪ませる。そして帽子を直し、俺の後に続いて村へと歩き始めた。


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