Laboratory【06:16 p.m.】

〈おはようございます、ミスター。よく眠れましたか〉
「……ああ、君か。さっきのも夢の一種かと思ったんだが、違うのか」
〈ええ、残念ながら現実ですね〉
 目覚めた時、またボトム少年が俺の傍に居た。随分長い時間眠り続けてしまったようだ。最初に目覚めた時と違うのは、俺の左腕に点滴用の針が刺さっていない位か。
 手首の辺りが楽になったのを無言で確かめていると、ボトム少年はレンズを光らせてみせ、
〈ミスター、少しよろしいでしょうか〉
「なんだ」
〈体調の方は順調に快方に向かっています。早めの処置が功を奏したのと、元々貴方の体力と回復力が高かったからでしょう〉
「それはなによりだ」
 本心からそう述べる。俺は下戸で酒はやらないし、煙草は時折吸うが日に一本もやらない日の方が多い。おそらく四〇代の男の中では、比較的健康体の部類に入るだろう。
〈失礼ですがミスター、所持品から身分証を見つけられなかったのでお尋ねしますが、貴方はこの国の方ですか〉
「いや、ここには旅の途中で立ち寄った。南から北上してきて、国境を越えるついでに、赤褐色の荒野とやらを見ておきたくて」
〈単独で、ですか〉
「ああ」
〈そうですか……因みに、ご職業は〉
 会話の流れが完全に職務質問になっていて、内心苦笑してしまう。まあ当然といえば当然か。だが俺が間を置いたからか、答える前にボトム少年の方が先に切り出してきた。
〈もしよければ、当研究所でしばらく勤務してみるのはどうでしょうか〉
「……はぁ」
 あまりにも唐突な発言に拍子抜けしてしまう。なのに発言者は至って真面目(に見える。彼に表立って変化がないためだ)で、どうしたものかと息を吐いてみると、奥に設置されているパーティションの先から、自動ドアが開く音がした。
 室内に足音が反響しながら近付き、俺の前に現れたのは、しばらく振りに見る人間だった。白衣を着用し、眼鏡をかけた初老の男。白髪交じりの短髪に、細身でやや猫背と、なんともわかりやすい風貌だ。
「やあ、ご挨拶が遅れました。当研究所の主任で、ウィルソンと申します」
「……ああ、どうも」
「すみませんね。この部屋のカメラでモニターしていたところ、このボトムが不躾な物言いをしてしまいまして」
 ウィルソンと名乗った男がそう言いながらボトム少年を一瞥すれば、ボトム少年は体勢を変えずそのままバックでパーティションの奥に消える。彼のボスはこいつということか。改めてウィルソンが俺に向き直り、興味深そうに俺を見つめながら、
「それにしても、貴方は運がよかった。危険区域ホットゾーンに指定されている場所で倒れていて、五体満足でここにいるのですから」
危険区域ホットゾーン……俺はただ、国境を越えようとしていただけだが」
「あのエリアは確かに出国審査なしで通過できますが、丸腰の一般人が通るのは無謀ですよ。空路か別ルートを使うほうが、結果的に安くつく位です。武装した魔法使い達の巣窟ですからね」
「魔法使いって……俺はいつからファンタジーの世界に迷い込んだんだ」
 魔法使い。いい歳した大人同士の会話の中に、不意打ちで現れたワードに困惑を隠せない。自分の眉が勝手に寄っていくのを止められない。
 だというのに、ウィルソンの方がわかりやすく不思議そうな顔をしてみせながら、
「おや。貴方は、異能のことをご存知ない、と」
「異能……さぁ、初めて聞く」
「では、超能力、と言い換えればどうですか」
「……スプーンを曲げたりとか、そういうやつか」
「ええ、そうです。あくまでほんの一例で、その能力は能力者の数だけ存在し、多種多様ですが」
 正直なところ頭が痛くなってきた。けれどこの男の授業はまだ終わりそうにない。
「貴方が発見されたエリアは、確かに国境越えに使われるルートなのですが、あの辺りには古くから異能を持つ先住民の末裔がおりましてね。それが「魔法使い」と呼ばれる者たちです。その部族の者たちが、半年ほど前から旅行者や近隣の住民を襲うようになってしまいまして。中には戦闘特化した異能持ちもおりますし、裏ルートで武器商人から近代兵器を入手しているので、本当に質が悪い」
「……それで俺は、まんまと奴らの餌食になってしまったってワケか」
「しかし珍しいですね、異能者のことを知らないとは。貴方も、意図せずこれまで何度も遭遇しているかもしれませんよ」
「……田舎の出なんでな。あんたが思っているより、そんなに気にしていない奴も星の数ほどいるだろう」
「まぁ、そうでしょうね」
 ウィルソンが肩を揺らし、微笑んでみせた。その笑い方がどうにもひっかかる。俺は話題を変えるべく、ひとつ気になっていたことを挙げる。
「ところで、ここはなんなんだ。研究所と聞いたが、一体なんの研究を」
「当研究所では、環境保護から始まり、土壌開拓用ユニットの生産・管理運営を執り行っております。ここでは、年々規模を広げつつある砂漠化を阻止すべく、土壌調査や研究を進める一方、二酸化炭素削減のために植林も行っています。そして、貴方のように国境を目指してここに行き着く旅行者が途切れず現れるので、ある種のシェルター的な役割も果たせているかと」
 やや早口で捲し立て気味の説明が終わると、ウィルソンの眼鏡がちらりと光った。
「どうでしょう。ここまでの話を踏まえた上で、先ほどのボトムの提案を思い出してほしいのです。旅費が必要であれば、当研究所では作業員を随時募集しております。これまでも、魔法使いの強襲の被害に遭い、旅費の工面が必要になった方々がしばらく身を寄せておりましたよ」
「……それこそ、作業ユニットとやらを増やせば事足りるんじゃないのか」
「いえ。実際のところ、作業ユニットたちだけではどうしても見逃してしまう繊細な部分を、人の手で補わなければなりません。勿論機械で全てをまかなえるようにするのが目標なのですが、技術者も少ない小さな研究所ですから、現時点ではまだまだ」
「……話はわかった。しかし、俺はこういう、ロボットだとか集団生活ってものがどうも苦手で。悪いが、他の不運な旅行者にでも当たってくれ」
「左様ですか……いえ、こちらこそ失礼いたしました。もしここのお力添えが必要な場合は、いつでも申してください」
「どうも」
「それでは、私はこれで」
 ウィルソン主任が足早にこの場を去る。再び沈黙が訪れ、俺は一息吐きながらベッドへ背中を預けた。やけに長く感じたあの男との会話が、ようやく終わったのだ。
 彼の提案は、定職を持たず各地を渡り歩いている根無し草には確かに魅力的ではあった。だからこそ、俺の中で猜疑心が頭角を現す。金品を奪われた旅行者のシェルターを、一介の研究所が担うというのは話がうますぎる。
 あと、あの口角だけ無理矢理上げて目は死んでいるという、作り物めいた笑顔が胡散臭い。決め手はそれだったりする。けれど、こういうしょうもない理由が、自分を正解に導いたりするものだ。
〈ミスター、今日はもう遅いので、出発は明日にすることをおすすめします。夜間は研究所外の治安が日中より五〇パーセント低下します〉
「……急に声をかけられて驚いた。というか、まだそこにいたのか」
〈失礼しました。マスターとの会話を邪魔するわけにはいきませんでしたので〉
「ああ……お気遣いどうも」
 パーティションの奥から、またボトム少年が現れる。変な話だが、さっきの主任よりこの不自然な声の少年のほうがよっぽど話しやすい。異様な気疲れからか、なんだか無性に煙草が欲しい。
 残っていた荷物の中に葉巻はなかったかと聞こうにも、不意に視界に入ったNO SMOKINGの文字。俺はなす術もなく、ボトム少年への挨拶もおざなりに夢の中へと逃避するしかなかった。


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