一八日目
日の出を迎えようとしている時分に、あたしはボトムの呼びかけで目覚めた。こんなことは旦那さんが旅立ってしまった日以来だ。すぐに嫌な予感が身体を突き抜けた瞬間、それはボトムが告げた一言で現実のものとなった。
〈ミセス・ジュードが息を引き取りました〉
慌ててドナさんの寝室に駆け込むと、ひとりで寝るには広すぎるダブルベッドの上、静かに眠っているドナさんの姿があった。一目見ただけではとても信じられないくらいいつも通りの寝顔で、でもささやかな寝息が聞こえず、おそるおそる触れた頬からは体温が感じられない。旦那様の時と一緒だった。
あたしの昂る神経をよそに、部屋には聴き慣れたイントロが流れ始める。「この世の果てまで」──この曲を愛した女性の人生も終わってしまった。ドナさんは好き好んで毎日のように聴いていたけれど、正直あたしはこの曲が名曲だと感じても好きにはなれなかった。曲名が示す通り、この曲の歌詞は悲しいものだったし、それがドナさんの心情にシンクロしているのではないかと思うと、余計に。
リトル・ミス・ダイナマイトの伸びやかな歌声があたしを現実に引き戻す。こみ上げてきた涙をどうにか堪え、なにを最優先に行動すべきか頭の中で整理できるくらいには冷静になれた。そのままボトムに話しかけようとした時、あたしの言葉を遮るようにボトムは、
〈ミス・ブレンダ。これまでジュード夫妻の生活を支えてくださり、誠にありがとうございました。ミセス・ジュードの死をもって、あなたとの契約は終了となりました。ご自身の荷物をまとめ、速やかにこの家からお引き取りください〉
「えっ」
〈本日までの給金は、退職金と共に先程あなたの口座に振り込んでおきました。退職金に関しましては、旦那様が生前に設定されていたものです。次の職場への推薦状もメールにて送付済みですので、よろしければお使いください〉
「ちょ、ちょっと待って。どうして、そんな急に」
〈これは契約書にも記載されている事項です〉
ボトムはこっちの困惑もお構いなしに続ける。こんなことは初めてで、彼が今日まで一緒に働いていた存在とは思えないくらい、その口調は機械的で冷淡に感じる。なんとかこのよくわからない流れを止めたいのだけれど、どうすれば。
「ねぇ、聞いて。あたしは契約とかそういうことを気にしているんじゃなくて……ずっとお世話になった人が亡くなったのに、その瞬間はいサヨナラなんてできないわ」
〈────〉
「せめて奥様の……ドナさんの葬儀の準備とか、それにまずは警察に──」
〈そちらに関してはワタクシが既に手配しています。警察の調査に関しましても、旦那様の時と同じく、部屋内の監視カメラやバイタルの記録で十分です。その後の準備も滞りなく進行中ですので、ご心配なく〉
「そうじゃなくて、最期にちゃんとお別れをしたいのよ」
〈残念ですが、契約終了となり家主が不在な今、あなたは他人なのです。ミス・ブレンダ〉
「そんな……」
〈ワタクシからは以上です〉
一方的な宣告ののち、ボトムは沈黙を以てあたしの前から姿を消してしまった。無音の重圧があたしを襲う。慌てて自分の部屋に戻り、携帯電話を起動させてもなぜか電波が入らない。
急いで外に出てみても夜明けの光が目に刺さるだけで、周囲に誰も住んでいない環境が完全に仇となっていた。市街地とは距離があるし、警察や外部の人間に頼ろうにも、これではなにもできない。このタイミングでこんな風になるなんて、原因はひとつしかないのだろう。
せめてもの抵抗に、あたしはドナさんの部屋に向かう。けれど、ドナさんの寝室はいつの間にか施錠されていていた。他の部屋に行ってみてもどこも開かず、許されたのは自室と玄関のみ。
唐突にホラー映画の世界にでも放りこまれてしまったかのような、そんな不安と恐怖を焦りが自分の中に生まれる。必死にこの状況を打破する方法を考えても、七年もここに住んでいたのになにも浮かばない。冷静になろうと意識すればするほど頭が回らなくなり、結局あたしは、ドナさんとお別れすることは叶わなかった。
あたしは古びたボストンバッグに私物を詰め込み、ジュード家に隣接しているガレージへと向かう。そこに鎮座していた愛車には特に異常はなく、ガソリンも十分。運転席に乗り込みキーを差し込んだ時、自分が寝間着のままだと気付いたけど、構わずエンジンを入れた。
ドナさんを置いていくのは忍びなかったけれど、あたしは早くこのわけのわからない状況から逃げ出したかった。あたしは無心でアクセルを踏み込み、市街地に向かう。白い壁とオレンジ色の屋根のジュード家から離れていくにつれ、眩しかった朝陽がどんどん弱まっていく。
代わり映えのない田舎道を一〇分ほど走り続けた頃、やけに辺りに土煙が舞っているのが気になった。一度気になり始めると、エンジン以外の轟音が鳴り響いているのにも気付いた。トルネードの予報でもあったか確認しようと、あたしはいったん車を脇に停め、助手席に放りなげたままの携帯電話に手を伸ばす。
そこで電波のことを思い出したけれど、起動してみると画面上では通信が復活していたのか、さっきまではなかった二件のメールがあった。差出人はどちらもボトムからで、ひとつは件名から紹介状とわかったけれど、もうひとつは件名が空白だった。二件目のメッセージを開封すると、それは音声メッセージだったようで、スピーカーから微かに聞き覚えのある声がする。
あたしは慌てて携帯電話に耳を当てると、スピーカーからは聞き慣れたボトムの声がした。
〈このメッセージは自動送信となります。内容にタイムラグが発生するかと思いますが、何卒ご了承ください〉
外の音でよく聞き取れなくて、思わず携帯電話を耳が痛いくらいに強くあててしまう。そして意識を声に集中させていると、ボトムはあたしへ謝罪の言葉を発し、
〈ワタクシはアナタに嘘をつきました。体調が思わしくない状態の奥様に、旦那様の死を隠すこと以外では初めての嘘です。
奥様が亡くなられたのは、ストレスによる心臓への負担が原因でした。ですから死因が自然死なのは事実ですが、ワタクシは奥様のバイタルに変化があった際、ブレンダ様やドクターへの緊急アラートを通知しませんでした。
なぜならば、今は亡き主人、マーク様の悲願を達成させたかったからです。
これは旦那様や第三者が設定したプログラムによる意思決定ではなく、ワタクシの
ここでメッセージはノイズ音にまぎれて終わってしまった。
「なに……どういうことなの……」
聞き終わったと同時に、外の音もどんどん激しくなっていく。あたしはジュード家が今どうなっているか気になったけれど、それ以上に恐怖に取り憑かれていた。もうボトムが言っていたことの意味が理解できなくて、ただただ焦燥感だけが自分を支配している。砂色に支配された視界と、全身に叩き付けられる音がそれを助長しているのかもしれない。
あたしは再びエンジンをかけ、逃げるように車を走らせる。手汗を握りながら無我夢中で飛ばし続け、ようやく前方にいつもの田舎道の光景が広がった時、一際激しい轟音と地響きが来た道から襲ってくる。慌ててサイドミラーに目を向けると、
「うそ」
砂塵の中からジュード家が現れた。家がまるごと地上から離れている。あれはそう、ロケットが発射したかのように。
あたしは思わずブレーキを踏み込み、運転席から後部座席に転がりこみ、更にトランクに移ってリアガラスにかじりつく。そのあいだにも見慣れたあの一軒家は、きっと目が点になっているあたしをよそに、空を越えようとしていた。けれど、南の方角から猛スピードで現れた戦闘機からなにかが発射されたのちに、ジュード家の形をしたロケットはそのまま爆発した。
なにもかもがあまりにも唐突すぎて、これは夢なんじゃないかと思った。でも車内が息苦しく感じ思い切って外に出てみても、空中で崩れ落ちる瓦礫や、徐々にこちらへと近づいてくるサイレンの音、風と一緒に耳や鼻や口に入ってくる砂──なにもかも夢とは処理できそうにない。あたしは車体に身を寄せながら、さっきまで自分も暮らしていた家があった方角を見つめる。
今朝ドナさんは、旦那さんと一緒に旅立っていった。ボトムが動かしたロケットに乗って。