Prologue

 俺は今全力で走っている。俺を追いかけてくるものから逃れるために。身体中に張り巡らされた神経や筋肉全てを駆使して、ひたすら走り続けている。
 しかし、俺はなぜ、そしてなにから逃げているのだろうか──そんな疑問がふと脳裏を過ると、逃亡のさなか目にしてきた光景が全て歪み始め、俺の身体と世界との境界線が曖昧になっていく。さっきまで感じていた息苦しさも、額からこぼれ睫毛に遮られていた汗も、確かに踏み締めていた筈の地面ですらも。そして全身に襲いかかる浮遊感……これを、俺は知っている。
 幾度となく体感してきた、俺に覚醒を促し、現実へと引き戻す合図。果たしてこれは俺にとって救済なのか、それとも罰なのか。俺はまだそれを判断しかねている。


『これより夜間にかけてのお天気ですが、上空には雲ひとつなく、星がよく見えるでしょう。ただし気温は氷点下まで下がりますので、外出の際は防寒の用意を忘れないよう、ご注意ください。次のニュースです……──』
〈お目覚めですか、ミスター〉
 ラジオの女性アナウンサーの声をバックに、子供の声をベースにした合成音声が頭上に響く。俺は重い瞼を持ち上げる。目の前にはくすみのない白い天井と、見知らぬ機械。
 こちらを見下ろすモノアイが俺を捕らえ、レンズが音を立てながら視線を向けてくる。現実での出迎えが人間ですらなかったことに思わず声を上げそうになったが、そこはぐっと堪え、
「ここは」
〈研究所の一室です。貴方が荒野に倒れていたのをボクが発見し、保護しました。現在時刻は午後一六時。発見から二三時間一五分経過しています〉
 代わりに出たのはお決まりの陳腐な問いだったが、ロボットが抑揚のない音声で時刻を知らせてくれた。しかし昨日の記憶がどうも曖昧になっているらしく、視線を彷徨さまよわせてみてもなにも思い出せない。再度ロボットを見やると、頭部を上下に動かしながらアシストしてくれる。
〈ミスター。あなたは昨日倒れていました。軽度の打撲もありましたが、主な要因は疲労と、水分不足による熱中症初期症状によるものです。発見があと一〇分遅ければ死亡していたでしょう〉
 ヒントをもらったところで、ここに至るまでの状況をどうにか思い出そうと、俺は瞼を閉じてみる。脳裏に浮かぶのは、俯せで倒れていた時の砂利の感覚や、口内に広がる鉄の味。思わず顔をしかめた時、俺の前にしゃがみこみ鞄や上着のポケットを無遠慮に漁る手が蘇る。
「ちっ……しけてんな。金になりそうなのは、バイクと……お、こいつか」
 聞き覚えのない男の声が聞こえる。声質からしてそう歳は離れていなさそうな気がするが、絶妙ともいえるタイミングで赤い砂嵐が巻き起こり始める。
 俺のゴーグルはヘルメットと一緒に外されていたため、賊の顔を確かめることは叶わなかった。首から下げていたチェーンを乱雑に引きちぎり、それに通していた指輪が俺から離れていくのを察知する。俺はとっさに掴んだ男の脚を、まともに開けない目で睨みながら、
「おい……やめろ。それは持っていくな」
「なんだ、まだトんでなかったのかよ。意外と頑丈だな」
 舌打ちとともに発せられた苛立ちの声。男は掴まれた足を振り上げようとするが、俺は負けじとなけなしの握力を込める。
「そいつは、やめとけ……売っても大した額にならない。その石ダイヤは合成だ、純正じゃあない」
「……チッ、紛らわしいもん持ちおってからに」
 砂が巻き上がる轟音のせいで、最後になんと言っていたのかは聞きとれなかったが、悪態らしき台詞を吐き捨て、男は指輪を投げて寄越す。ちょうど顔に当たって地味に痛かったが、そんな些細な痛みでは俺の意識を繋ぎ止めるには役不足だったらしく、結局そのまま気を失ったようだ。俺が覚えているのはここまでだ。
「おい……指輪はなかったか。小さい石が付いたやつだ」
〈ありましたよ。人工ダイヤがはまったリングですね。貴方は意識を失いながらも、それだけはしっかりと握っていました。残念ながらその他貴重品は確認できませんでしたが、現場に残っていた所持品は全て回収し、別室にて保管しておりますので、どうぞご安心ください〉
 そう言われれば確かに、首にはペンダント用のチェーンと、そこに通された指輪の感触がある。引きちぎられた筈のチェーンも合わせて修復されたらしい。俺は内心胸を撫で下ろした。
「それはどうも……」
〈この度は災難でしたね。しかし、命を取り留めただけマシというものです〉
 声こそ人工的ではあるが、会話のテンポは人のそれと大差ない。最近は動物型愛玩用に始まり、さまざまなコミュニケーション用のロボットが市場に出回っているらしい。にしては、今ここにいるのは小型カメラを頭部に模してつけられた、逆さまのバケツ型でどこかレトロ調だが。
「俺は、遠隔操作で誰かと話しているのか」
〈いいえ。ボクは自律型作業用ユニットです。このエリア一帯の土壌改良を目的としてプログラムされております〉
「作業用ユニット……の割には、随分小柄でお喋りだな」
〈ボクは初期型の試 作 品プロトタイプでして、実験的に人工知能AIを有しています。現在も、データベースを元に貴方の発言内容アクションを解析し、返 答リアクションしています〉
「あー、要するに、君はロボットとはまた違うのか」
〈はい。厳密に言えば。説明が必要でしょうか〉
「いや、結構だ。今は頭が回っていないから」
〈承知しました、ミスター。では、ボクのことは「ボトム」とお呼びください〉
「ボトムね……ちゃんと名前があるわけか。たいしたもんだ」
〈はい。どうも〉
 心にもないことを適当に口にした時というのは、相手がそれなりの年月を生きたものであれば、なにかしら反応する兆候があるものだが、そこは所詮機械ということか。もしくは、こいつの中身が実は純真無垢な少年なのか。どうにも俺は、人間の子どもに接している錯覚に陥ってしまいそうだ。
 しかし、俺はまだ体力が戻っていない身体の主 導 権イニシアティブを取り戻すには至らず。「ボトム少年」がまだなにか言っていた気もするが、次に瞼を開いた時には、別の落日を迎えることとなった。


1