Laboratory【08:48 a.m.】

 目覚めと共に白い天井と三回目の対面を果たし、俺は眠り過ぎによる頭痛を抱えながら、サイドテーブルに置いてあった簡易食料レーションとインスタントコーヒーを拝借する。ここにあるのは簡素なパイプベッドにサイドテーブルのみ。ケトルとマグの他には、俺がここに来る前に身につけていた衣服が「消毒済」のラベルを貼られた状態でビニール袋に収まっている。着の身着のままで各地を渡り歩いていたのを思うと、さぞ真っ黒な水がこいつから出たのだろう。そもそもこんな色をしていたかと、持ち主である俺が首を傾げてしまう始末だ。
 ところが、シャツにパンツにソックスにジャケットと、ここまではよかったのだが、肝心のブーツが見当たらない。部屋を見回してみても、それらしきものはどこにもないのだ。さてどうしたものか、と中身が大分減ってしまったショルダーバッグを肩にかけ、適当にショールを巻いていると、何度か夢うつつで耳にしたキャタピラの音がドアの前で止まり、
〈おはようございます〉
「ああ、また君か。足の部分はそうなってたんだな」
 ボトム少年とも三度目の対面を果たす。改めて彼の全身像を観察する。元は監視カメラらしきヘッド部分は、逆さにしたようなバケツ型のボディーに繋がり、更にその下にはキャタピラがついていた。
〈はい。基本的にどこへでも自立移動が可能です〉
「便利だな」
〈この過酷な荒野を渡るには尚更、ヒトには靴が必要ですもんね。貴方のは、ボクが発見した時点でありませんでした〉
「ああ、やっぱりそうか。どうやらあの時、財布とかと一緒に持っていかれたらしい」
〈災難でしたね〉
「ああ、まったくだ」
〈実は……失礼を承知の上で、貴方が眠っているあいだに身体検査を実行いたしました〉
「……持ち物検査に加えて身体検査。随分と念入りなことだな」
〈申し訳ありません。あくまで貴方の容態を診るための措置です。その際に判明したデータを元に倉庫を探したところ、貴方の足のサイズに合うものがこれしかなかったのです。無いよりはマシだと思いますので、どうぞこれを〉
 そう言ってボトム少年は、首から下げていた袋を俺に寄越すべく接近してきた。中にはここの職員用のものらしき、新品の白い長靴がある。ゴムの臭いが鼻につくが、文句を言える立場でもない。
 勝手に自分の身体を調べられていたと言われていい気分はしないが、それでも助けてもらった身の上で、機械相手に文句を言うのも筋違いというやつだろう。俺は黙って長靴を履き、少しのあいだ世話になった殺風景な部屋を後にした。

 部屋を出た先の壁や床、建物内は至る所白く構成されている。大病院の中でも歩いているかのような気分で、俺は一緒に部屋から出てきたボトム少年の案内で出口に向かう。道中俺が居た部屋と同じドアをいくつか見かけたが、そこから人の気配は感じず、結局エントランスにたどり着いても、誰ひとりの顔を見ることがなく、代わりに無口な鉄の従業員とすれ違うくらいだった。
 俺の足音とボトムのモーター音だけが響いていた空間を出た先に広がっていたのは、確かに見覚えのある荒野だった。隆々とした渓谷の岩肌がむき出しになり、砂の面積が年々拡がっている赤褐色の世界。空がやけに明るく感じる光景に目を細めながら進むと、ボトム少年は背後でヘッドを左右に振ってみせてから、
〈ミスター、本当にまた国境越えを目指すのですか〉
「そうだが」
〈折角助かったのに、また危険区域ホットゾーンに行くのはオススメできませんよ。それこそ、急ぎの旅でないのなら当研究所にて短期勤務ののちに、正規ルートで行くための準備をするのが賢明かと〉
 確かに、ボトム少年の言っていることは正しい。今の俺には移動手段は己の足のみ、貴重品は根こそぎ奪われ、そもそも銃ひとつも持たずに丸腰でいるのは、彼からしてみれば狂気の沙汰なのだろう。
 しかし、それでも俺はボトム少年の提案にイエスとは返せない。これは非常に原始的で、最先端の科学を駆使している施設の連中に言えば非科学的だと揶揄されるだろうが、俺はどうしてもあの場に留まろうとは思えないし、そうしない方が賢明だと、俺の生存本能が叫んでいるのだ。あの研究所、そしてボトム少年には借りがあるし、それを返さない不義理を働くのも気分の良いものではないが、やはりなにか胡散臭い……そう感じてしまったことを覆すくらいのものを、この荒野に再度相見えるまでに見つけられなかった。ならば、一刻も早く離れたいのが本音だ。
 それに、俺には俺なりの旅のルールがある。ある種のジンクスとも言えるが、これを守らないとかえって自分の身に危険が迫る気さえしている。事実、そういう経験が一度や二度ではなかった。
 それを破る時がくるとすれば、今の旅を終える時か、俺が死ぬ時か。ふたつにひとつだ。
「とにかく、助けてくれたことは感謝しているが」
〈ミスター、隠れてください〉
「えっ」
〈前方の岩がちょうど死角になります。早く〉
 ボトム少年は半ば強引に体当たりを仕掛け、俺の体制を崩させ岩の物陰に身を潜めさせる。そのまま俺に並び密着しながら、カメラだけ伸ばし辺りを伺っている。尻と背中が地味に痛むが、間もなく遠くから複数のエンジン音が地響きと共に伝わってきた。
「な、なんなんだ一体」
〈昨日マスターが話していた、魔法使いの戦闘員たちです。このエリアを巡回しているのでしょう〉
「巡回って、なんのために」
〈彼らは治安維持と称していますが、実際のところ、先日のミスターのような人間を探しているのです。なにも知らずに迷い込んだか、命知らずな者たちは魔法使いたちにとって恰好の獲物ですから。あと……〉
「あと、って。まだなにかあるのか」
 続きを促しながら少しだけ腰を上げ、エンジン音と砂埃の方へと目を向ける。そこから見えたのは、数台あるトラックの荷台から、それぞれロケットランチャーを構える男たちの姿。
〈巡回ついでに、この研究所に撤退しろと、武力行使での抗議運動に来ています〉
「おい、そういうのは」
 もっと早く言ってくれ──そう口にする前に、俺はボトム少年を抱えて咄嗟にその場から後方へ飛び退く。地に頬を擦ってしまったのと同時に爆音が響き、衝撃波がこちら側にも容赦なく襲いかかる。ゴーグルも奪われていたため、ただ姿勢を低くし、片腕を眼前に持ち上げるしか防御の術がない。
〈ミスター、この場に留まっていては危険です。ひとまずこの場から離れましょう〉
「なんだ、よく聞こえない」
〈ボクについてきてください〉
 かろうじてボトム少年の声を聞き取り、俺は彼のキャタピラ音を追いかける。背後では未だ爆音と、研究所側の警告ブザーに誰かの怒号。意外なことに、ボトム少年は元来た道へは引き返さなかったが、今はとにかく無事に逃げ切ることが先決だ。
 病み上がりに履き慣れない長靴でのランニングは正直キツいものがあるが、俺はひたすら走り続ける。
 これはいつもの夢か……いや、これは紛うことなき現実だ。そんな自問自答を繰り返し始めた頃、危険区域ホットゾーンからどうにか離脱し、周囲に人の気配がしない場所まで逃げ果せた。
〈お疲れ様でした、ミスター〉
「ああ……疲れた……非常に、疲れた。四〇も、過ぎると、なかなか……どうして……」
〈急に止まらない方がいいですよ。しばらく歩いて、呼吸を整えてください〉
「そうか、ああ、そうだな……いいな、君は……息切れとは、無縁だろ……」
〈いえ、ボクもこの世界ではもう老 人ロートルなので、仮に人間年齢に換算してみれば、ミスターより老化が進行していますよ〉
 変化のない表情で、ボトム少年はそう言ってのける。息を切らしたりしないのが羨ましい限りだが、この小さな鉄の塊の内側は、老化の一途を辿って寿命を磨り減らしているというのか。その割には作動音に不穏な様子はないし、声も若いからどうも結びつかないが。
〈それより、安全確保のためとはいえ、随分研究所から離れたところまで来ましたね。方角的にはちょうど国境へと続く大橋の辺りです〉
 改めて逃走経路を振り返ってみれば、俺たちが元いた場所からは煙が流れている。
「君はどうするんだ。ここまで案内してくれたのは助かるが、このまま帰って大丈夫なのか」
〈ええ。危険なのには変わりないですが、先程のは威嚇攻撃です。本格的な戦闘ではないので、間もなく収まるかと〉
「じゃあ、君はもう引き返した方がいい。お互い、奴らに見つかる前にここを離れた方がいいだろう」
〈はい。この先の街道を道なりに進むと、町に行けます。ミスターの歩幅なら三〇分もかからないかと〉
「わかった。世話になったな」
〈いえ。ただ、あの町は魔法使いたちが暮らす場所です。くれぐれもお気をつけて〉
 ボトム少年は俺に一礼するかの様にヘッド部分を回してみせてから、そのまま来た道を戻り始める。それをしばし見送ってから、俺も目的地である大橋へ向かった。


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