一六日目

「ドナさん、今日の掃除なんですけど」
「ええ、いつも通りお願いね」
「はい……あの、地下室はどうしますか」
「あそこは……そのままにしておいて」
「でも、旦那さんがなにか残しているかも」
「だめよ。あの部屋には絶対入ってはいけないと言われているでしょう。言いつけを破ったらあとで叱られてしまうわ。あの人、嘘をついてもすぐ見破ってしまうから」
 ドナさんは眉尻を下げながら、肩の辺りで切りそろえられた白髪を揺らす。不安そうに揺れる目。この人は、やや神経質だった夫の怒りを買うことを必要以上に恐れている。
 でもそれは夫婦関係に問題があったわけではなくて、むしろ仲睦まじい間柄で、ただ物事の意思決定権はほんの些細なことでも旦那様が担っていたから、その名残りなのだと思う。
「わたしの嘘ってわかりやすいのかしら……ねえ、ボトム」
〈奥様は嘘をつく時、脈拍が通常より早まります〉
「いやね、そんなのあなたしかわからないでしょう……ブレンダ、あなたはどう思う」
「ええっと……ドナさん普段から裏表のない人だから、旦那さんにはちゃんとわかるんじゃないですかね」
「そう、なのかしら」
「きっとそうですよ。夫婦ですし」
 あたしはそう返すので精一杯だった。
 今日のドナさんは、昨日と変わらず旦那さんの遺骨を膝に置いているけれど、まるで旦那さんが外出中で夕方にでも帰ってくる……なんて、そんな口ぶりだった。旦那さんが死んだという事実を忘れ、自分の宝物を大事に抱えているような、そんな調子だ。そしてこういう日は、夜中に寝室でひとり涙を流している。
 無意識の内に夫の死から逃避しているのかもしれないとは、彼女のかかりつけの医師による見解だ。ドナさんは今までちょっとした物忘れはあっても、日常生活に支障をきたすようなことはほとんどなかった。それが旦那さんの急死によるショックで、一気にバランスが崩れてしまったらしい。
 今はまだ翌日になれば元に戻るけれど、いつ本格的にぼけてしまってもおかしくない。そうなったらいよいよあたしの手に負えなくなり、ドナさんは施設へ入居を余儀なくされる。
「ねえボトム。いつもの曲、かけてくれるかしら」
〈THE END OF THE WORLDでよろしいですか〉
「ええ、お願い」
 あたしの心配をよそに、リビングにはいつも通りのゆったりとした時間が流れ始める。幾度となく繰り返しているこの家の日常。本当にそうだったらどんなによかったか。
「ねえブレンダ、知っているかしら。リトル・ミス・ダイナマイトの名前って、あなたと同じなのよ」
「ええ、存じておりますよ。確か、それであたしを雇ってくれたんですよね」
「そうなのよ。なんだか縁を感じちゃって。まだまだ若いあなたに、こんなおじいちゃんおばあちゃんの世話を毎日させてしまうのは、なんだか申し訳ない気がするのだけれど」
「そんなことないですよ。屋根のある部屋と仕事を与えてくれて、こんなによくしてくれて……感謝してもしきれません」
「大げさよ。でもありがとう。わたしたちには子どもができなかったから、あなたがいてくれて本当に嬉しいの。娘がいると、こんな感じなのかしらって」
 聞くところによると、旦那さんの父親は彼が生まれる前に事故で亡くなり、母親も持病持ちだったらしく、旦那さんが成人する日まで生きられなかったという。ドナさんはドナさんで、家庭環境があまりよくなかったとのことで、両親とは結婚後は疎遠になり、連絡先もわからないと言っていた。だからこそ、この夫婦はより強い絆をもって一緒に歩んできたのだろう。
 リビングの戸棚の上に飾られているフォトフレームに収まっているジュード夫妻。妙齢らしき頃から最近のものまで、沢山飾られているそれらを見ればわかる。結婚しても長続きしなかったあたしとしては、ふたりが並ぶ姿はとても眩しい。
「ところで、あなた主人からなにか聞いているかしら。退職しても研究研究って、地下室に籠りっぱなしなあの人が朝から出かけるなんて」
「えっと、旦那さんは……」
〈奥様、旦那様はドクターのところですよ。本日は定期検診の日ですから〉
「あら、そうだったかしら」
〈ハイ。奥様が起床する前にお出かけになられました。午後からは学会の聴講の予定ですので、帰りは遅くなるとのことです〉
「そうだったのね。いやだわ、最近物忘れが激しくて……ありがとう」
〈いえ、スケジュール管理もワタシの仕事ですので〉
 意外なことに、ボトムは難なく嘘をついてみせた。こういう時、彼なら躊躇せずに真実を突きつけてきそうなものなのに。これは彼なりの気遣いというものなのだろうか。
 もしそうなら、姿なきAIボトムはあたしなんかよりよっぽど世渡り上手というやつなのかも。キレイ過ぎる発音や言葉の抑揚が希薄だからまだわかるけど、それすら克服してしまったら、通話とかだけだともはや人かAIかなんて区別がつかなくなってしまいそうだ。


 あたしは昼下がり、ドナさんがリビングのチェアーでうたた寝している隙に、キッチンの片隅でボトムに声をかけた。
〈ミセス・ブレンダ。どうかされましたか〉
「えっと、最近ドナさんの調子が悪い時、よくフォローしてくれているでしょう。正直あたしもこういうの初めてだし、助かっているから……改めてお礼が言いたくて」
〈気にしないでください。ワタクシの仕事ですから〉
「そうは言うけれど、事前に打ち合わせていたわけじゃないのに、随分柔軟な対応をしているじゃない。あたし機械とかほとんどわからないけど、あなたってすごいのね」
 感心していることをそのまま伝えると、ボトムは淡々と、
〈ワタクシのデータベースはマーク様自身が構成しました。ジュード夫妻やミセス・ブレンダの生体データは勿論、交友関係から思考パターンまでです〉
「えっ、そんなことまでわかるものなの」
〈マーク様が入力したデータもですが、毎日の行動パターンや会話内容から分析し、それを元にワタクシは稼動しています。最近のAIは学習機能も組み込まれていますので、今日までのあなたがたの体調や精神状態に合わせて発言するのは、さほど難しいことではないのです。ただし、常に正解を導きだせるわけではありませんので、もしも不要な発言をしてしまった際はご教授ください〉
 小難しいことはよくわからないけど、ようするにそれは、
「やっぱり人とそんなに変わらないのね」
〈そうでしょうか〉
「そうよ」
〈ミセスはそう仰いますが、ワタクシにはまだまだ至らない部分が多数あります。ヒトとのコミュニケーションほど、難解なものはありません〉
「……そう感じるの、あたしたちだって同じなのよ」
 そう伝えると、ボトムは今まで饒舌に話していたのに、珍しく少しの間をおいてから、〈さようでございますか〉と呟くように言っていた。その時のボトムは、さっきドナさんに気を遣ってみせた時よりもよっぽど。


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